

ブログで阿波国風土記の解釈を進めています
本サイトは、忌部のモチーフ(麻・織・祓・布)を軸に、巻の流れに沿って『阿波国風土記』を読み解く試みです。
学術的な定説は尊重しつつ、編纂人が何を残し、どこを寄せたかに注目します。
専門的な分析とは棲み分けし、在地の息づかいを優先します。
阿波国風土記には、中央史料と異なる神統譜が見える。
しかし 世間で言われてる様な 隠された理由として
中央史との乖離 天地開闢の逸話 倭尊上皇の逸話などは出てきません
淡々と 阿波国の公式文書として中央に提出される前提の記録書です
そこに「誤伝」を見るか、「阿波独自の祈りの詩」を見るか。
それは読む者の心の向きによって変わる。そこを重視しながら進めていきます
これは見開きNO005頁です
そして次は見開きNO006頁です右頁が微妙に違いますが 後は全く同じです
どういう意図で 同じページを重複させたのでしょうか?
書き手のレベルが語るもの仮に、紙面に縦横の糸を張り、
筆運びの邪魔にならない位置で位置的な補正を行えば、
行頭や行間、余白の均整を保つことは、技術的には可能である。しかし、この写本に見られる整い方は、
そのような補助だけで説明できる範囲を、明らかに超えている。同じ字が、
同じ高さに置かれ、
同じ重心で立ち上がり、
ほとんど同じ呼吸のまま、繰り返し現れる。それは、単に「達筆」であるとか、
「几帳面である」といった評価では足りない。通常、どれほど熟練した書き手であっても、
一字一画には、わずかな揺れが残る。
その日の体調、呼吸、思考の流れが、
墨の濃淡や払いの角度として、必ず現れるからだ。ところがここでは、その揺れが極端に抑え込まれている。
まるで、
一字ごとに「ここ以外に置く場所はない」と
書き手自身が知っているかのようである。これは、ただ手が巧いという話ではない。
版面全体を、頭の中で完全に把握した状態で、
一字も迷わず筆を運んでいるということを意味する。しかも、それを一頁だけで終わらせていない。
見開きという単位、
さらには冒頭の連続する頁において、
同じ緊張感を保ったまま書き切っている。これは相当な精神力を要する作業だ。
一字を誤れば、
全体の均衡が崩れることを、
書き手自身が誰よりも理解しているからである。ここで改めて、この頁が
初巻の初頁であることを思い起こす必要がある。この位置は、
内容を語る前に、
まず「見られる」頁である。
風土記であること、
正規の編纂物であること、
国家に提出されうる文書であることを、
文字ではなく、姿で示さねばならない。そのため、編纂の指令とともに、
行配分や余白を含んだ書式、
すなわち版面の雛形が、
中央から示されていた可能性は否定できない。それが平田篤胤の名の下であったのか、
あるいは彼を含む中央の編纂意識の延長にあったのかは、
ここでは断定しない。ただ確かなのは、
この書き手が、その枠を
「守った」のではなく、
完全に引き受けたということである。定められた形式を、
ただなぞるのではなく、
自らの筆致として体内化し、
一切の迷いを排して書き切っている。その結果、この頁は、
規格文書の顔を持ちながら、
同時に、異様なほどの密度と緊張感を帯びている。そこには、
命じられて書いた者の姿も見えるし、
使命として引き受けた者の姿も重なる。いずれにせよ、
この筆者は、
並の写経者や地方書記の水準にはない。書式の意味を理解し、
それが何のために必要とされているかを把握したうえで、
自らの技量と精神を、
初頁にすべて注ぎ込んでいる。だからこそ、この頁は、
説明を受けなくても、
読む者に違和感と敬意を同時に残す。これは単なる写本ではない。
書き手の覚悟が、そのまま版面に定着した頁だと、
感じる人がいても、不思議ではない。
阿波国風土記明治写本冒頭に見られる二頁分の複写のような重複は、
単なる誤写や再掲ではなく、
原本に存在した正統的な見開き構造を、
国家提出用写本において意図的に反復使用した結果である。
これは文書の公的性格を視覚的に保証すると同時に、
後段に配置される阿波忌部側の核心的記述を成立させるための
編集上の緩衝構造と見ることができる。

八雲立つ
出雲八重垣
妻籠みに
八重垣作る
その八重垣を
(写真)高根 悲願寺
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*出典:筑波大学附属図書館蔵『阿波国風土記』写本
翻刻・現代語訳
各巻に記載あり
書き外題の書名: 阿波國風土記編輯雜纂
筑波大学図書館所蔵の1~5巻に「右置文麻植郡川田村神主早雲兵部所藏」
「天保十年三月木内茂臣が写せし本をもて校合「天保十年四年四月八日野口とし長」
等の朱墨による書き入れあり
阿波国風土記明治写本は、単なる古文書の複写ではない。
そこには奈良時代・天保期・明治期という三つの異なる時代背景が重なり合い、それぞれの政治的・宗教的要請が層として刻み込まれている。
原本が編纂された奈良時代は、神と仏が未分離の世界であり、
神祇・仏法・土地神(地祇)が対立せず併存していた時代である。
この時代の風土記は、
という性格が強い。
阿波国風土記もまた、本来は阿波という土地が保持してきた神霊観・祭祀観を、そのまま残すことを目的としていたと見るべきである。
天保期は、幕府体制下での学問整理・古文書蒐集の時代であり、
ここで行われた写本編纂は、思想改変ではなく保存と整理が主目的だった。
この段階では、
そのため、阿波国風土記の構造的特異性は、まだ露骨に手を加えられていない。
決定的なのは明治期である。
この時代、国家は神仏分離と国家神道の確立を急ぎ、
平田篤胤を中心とする復古神道強硬派の思想が制度設計に大きく影響した。
その結果、
が強く求められることになる。
阿波国風土記明治写本における
初頁と第二頁の異様なまでに精密な重複は、単なる誤写でも偶然でもない。
これは、
という国家提出用の体裁を誇示するための視覚的演出と見るのが自然である。
精密すぎる複写技術そのものが、
「これは管理された文書である」という無言の主張になっている。
ところが、その“公文書的整合”の裏側、
裏頁右側には、明らかに異質な記述が置かれている。
そこでは、
一切登場せず、
天日鷲命のみが、神武天皇から武功を褒められた神として描かれる。
これは偶然ではない。
ここに現れるのは、
すなわち、阿波の気概である。
天児屋根命・天太玉命という祝幣二神は、
神武天皇の長脛彦討伐で武功を上げたとされる存在である。
しかし阿波国風土記では、
この構造は、
「中央神話を否定はしないが、全面的には肯定しない」
という、極めて慎重で知的な距離の取り方を示している。
阿波国風土記最大の核心はここにある。
風土記編纂指針として、
麻植神と呼ばれる忌部神に正面から触れることは、神道儀式様式そのものを歪める
という認識が、中央側にすでに存在していた。
これは、
ことを中央が理解していた証左である。
この点は、鳴門教育大学所蔵の後藤家文書にも示唆があるとされ、
阿波を軽視していたのではなく、触れられなかったという構図が浮かび上がる。
阿波国風土記明治写本は、
という、高度に計算された編纂の産物である。
それは抵抗ではなく、
沈黙と配置による主張であり、
「我らは知っている。だが歪めない」
という阿波の本意が、行間と構造そのものに刻まれている。