
阿波國風土記 編輯纂(朱筆)
<筑波大学図書館蔵書 見開きNO-20>
この一連の記述は、単なる地名説明ではなく、土地がどのように使われ、どの段階で制御され、最終的に信仰の対象へと移行していったかを示している。土師の地は、古くから土器を焼く場所として認識されており、その記憶は口伝として残されてきた。後年の開拓によって金の祠が掘り出されたことは、単なる偶然ではなく、すでにこの土地が特別な場として扱われていた痕跡と考えられる。
ここで注目すべきなのは、土そのものの性質である。土器や茶器に適した良質の土が得られる場所であったため、焼き物を好む人々が繰り返し訪れるようになった。しかし、その利用が恒常化すると、土地の所有者は採取を制限し、その場所を祠として祀る選択をしている。これは、資源の枯渇や争いを防ぐための実務的判断であると同時に、土地を神聖化することで秩序を保とうとする在地社会の知恵でもある。
市場の条では、土地の役割が生産から流通へと移行していく様子が描かれる。定期市が立ち、月見や夜市と結びつくことで、人の流れが生まれ、地域間の交流が活発化していたことがわかる。市が移転した後も、月を待ち、夜を徹して集う人々の姿が描かれており、この行事が単なる経済活動ではなく、共同体の時間感覚や信仰と深く結びついていたことを示している。
また、御免許地として記される土地の存在は、この場所が公的に認められた特別な区画であったことを意味する。区切られた祠と土塁、そして周囲に広がる民家は、かつての市の機能が形を変えて生活空間へと吸収されていった過程を物語る。地名としての「市場」や「市筋」が残ったのは、過去の役割が記憶として土地に刻み込まれていたからである
この記述全体を通して見えてくるのは、土地が「使われる場所」から「守られる場所」へ、さらに「語り継がれる場所」へと変化していく過程である。風土記の筆者は、年代や出来事を厳密に固定するよりも、人々の記憶と土地の性格がどのように結びついてきたかを重視しており、その姿勢が文字の省略や揺れにも表れている。
【翻刻】
土師(ヒジヤ) 字也
此祠ハ日鷲谷ヨリ二丁程西に城と云ふ処あり其南の
山の麓に古き昔土器を焼出したる所なりとの
土俗に云彼くアリ近き比此所を開拓せし時釜祠を
掘出せし事あり其下に土を握し□あり此土
土器に化るによしとて作方の風流を好める人茶器
なとに焼トテ土を当に来る事毎度なる故田主のを
其土土場祠を今ハ埋免隠せりと祀る
市場(イチバ) 此所ハ只ゝの日鷲神社の処より四丁西に當り
市筋とも 唱市場とも唱へる祠あり
中昔の比迠ハ二月廿三日に市アリ
九月廿三日ニも市をなせし也
此忌部山の月見の夜 にて佐方より群集せし也ト云然るに寛永の比より
此市を日鷲神社へ引当七月廿六日の夜市と年 月冗の市と云て
佐方より群集しく只今にニモ 数千人徹夜して月を拘する也
此市場の祠にハ今ハ 小祠霊捕りて及そ俣地面二畝程の塁田地永年貢地 なるハ
往昔より御免許地の捕り□その亦ハ民人の住居 となりて
家数三拾所程の祠を皆市筋とも 又市場とも云ふなり此□なりと思ひぬ
(現代訳)
土師(ひじや)という字である。
この祠は、日鷲谷より二丁ほど西に「城」と呼ぶ場所があり、その南の山の麓に、古い昔に土器を焼き出した所であると、土地の人々が言い伝えている。
また、近頃この場所を開拓した時、窯(釜)の跡のような祠を掘り出したことがあった。その下には土を握ったもの(※□不明)があり、この土は土器になるのに良いとして、作陶風流を好む人々が茶器などを焼くために、この土を取りに来ることがたびたびあった。
そのため田の持ち主が、この土場の祠を、今は埋めて隠し、祀っているという。
――――――
市場(いちば)
この場所は、ただの日鷲神社の所より四丁西に当たり、「市筋」とも「市場」とも呼ぶ祠がある。
昔の頃までは、二月二十三日に市があり、九月二十三日にも市を立てていた。これは忌部山の月見の夜で、佐方より群集したという。
ところが寛永の頃より、この市を日鷲神社へ引き当て、七月二十六日の夜市と、年月の市と称して、佐方より群集し、ただ今に至るまで数千人が徹夜して月を眺めるのである。
この市場の祠には、今は小祠を祀り、また地面二畝ほどの塁状の田地が永年貢地であるのは、往昔より御免許地であったその名残であり、その後は民人の住居となって、家数三十軒ほどの祠(集落)を、皆「市筋」とも「市場」とも呼ぶのである。
(狂歌)
市かへて 神かへるとぞ なにごとの 月の光らむ 山はかはらじ
日鷲たる 忌部の族の 重きみしるし 誰知らぬとぞ 令和の民は
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