斎王臥淵

阿波の神社巡り 阿波一社の考察 阿波風土記/古語拾遺考 etc

阿波国風土記明治写本編纂に内在する三層の時代背景と阿波の本意

阿波国風土記明治写本は、単なる古文書の複写ではない。
そこには奈良時代・天保期・明治期という三つの異なる時代背景が重なり合い、それぞれの政治的・宗教的要請が層として刻み込まれている。


① 原本層:奈良時代編纂 ― 神仏習合の只中

原本が編纂された奈良時代は、神と仏が未分離の世界であり、
神祇・仏法・土地神(地祇)が対立せず併存していた時代である。

この時代の風土記は、

  • 国家神道の正当化文書ではなく
  • 各地の地霊・神系・由緒を「そのまま記録する」報告書

という性格が強い。
阿波国風土記もまた、本来は阿波という土地が保持してきた神霊観・祭祀観を、そのまま残すことを目的としていたと見るべきである。


② 天保期写本層:整理と保存の時代

天保期は、幕府体制下での学問整理・古文書蒐集の時代であり、
ここで行われた写本編纂は、思想改変ではなく保存と整理が主目的だった。

この段階では、

  • 神仏分離はまだ徹底しておらず
  • 地方信仰や忌部系祭祀も「異物」として排除されていない

そのため、阿波国風土記の構造的特異性は、まだ露骨に手を加えられていない。


③ 明治期写本層:神仏分離・国家神道確立の急務

決定的なのは明治期である。
この時代、国家は神仏分離と国家神道の確立を急ぎ、
平田篤胤を中心とする復古神道強硬派の思想が制度設計に大きく影響した。

その結果、

  • 中央神(天児屋根命・天太玉命)を頂点とする神統譜
  • 皇統正当性を支える「武功神話」の整理

が強く求められることになる。


初頁と第二頁の精密な重複が示す「国家提出文書」という主張

阿波国風土記明治写本における
初頁と第二頁の異様なまでに精密な重複は、単なる誤写でも偶然でもない。

これは、

  • 「本書は正規の公文書である」
  • 「改竄や恣意的挿入ではない」

という国家提出用の体裁を誇示するための視覚的演出と見るのが自然である。

精密すぎる複写技術そのものが、
「これは管理された文書である」という無言の主張になっている。


裏頁右側に現れる「異物」― 天日鷲のみを称える記述

ところが、その“公文書的整合”の裏側、
裏頁右側には、明らかに異質な記述が置かれている。

そこでは、

  • 天児屋根命も
  • 天太玉命も

一切登場せず、
天日鷲命のみが、神武天皇から武功を褒められた神として描かれる。

これは偶然ではない。

ここに現れるのは、

  • 中央神話への全面的従属ではなく
  • 阿波忌部系の誇りと自立性

すなわち、阿波の気概である。


中央二神(天児屋根・天太玉)の「後置」と疑義の構造

天児屋根命・天太玉命という祝幣二神は、
神武天皇の長脛彦討伐で武功を上げたとされる存在である。

しかし阿波国風土記では、

  • 彼らは前面に出されず
  • 後段で、しかも断定を避けるような書き方で配置される

この構造は、
「中央神話を否定はしないが、全面的には肯定しない」
という、極めて慎重で知的な距離の取り方を示している。


忌部神(麻植神)に触れないという編纂指針

阿波国風土記最大の核心はここにある。

風土記編纂指針として、
麻植神と呼ばれる忌部神に正面から触れることは、神道儀式様式そのものを歪める
という認識が、中央側にすでに存在していた。

これは、

  • 忌部祭祀が「地方信仰」ではなく
  • 神道儀式の根幹に関わる体系である

ことを中央が理解していた証左である。

この点は、鳴門教育大学所蔵の後藤家文書にも示唆があるとされ、
阿波を軽視していたのではなく、触れられなかったという構図が浮かび上がる。


結論:阿波の本意とは何か

阿波国風土記明治写本は、

  • 国家神道を正面から否定せず
  • しかし阿波忌部の核心には踏み込ませない

という、高度に計算された編纂の産物である。

それは抵抗ではなく、
沈黙と配置による主張であり、

「我らは知っている。だが歪めない」

という阿波の本意が、行間と構造そのものに刻まれている。

阿波國風土記 編輯纂(朱筆)
<筑波大学図書館蔵書 見開きNO-20>


この一連の記述は、単なる地名説明ではなく、土地がどのように使われ、どの段階で制御され、最終的に信仰の対象へと移行していったかを示している。土師の地は、古くから土器を焼く場所として認識されており、その記憶は口伝として残されてきた。後年の開拓によって金の祠が掘り出されたことは、単なる偶然ではなく、すでにこの土地が特別な場として扱われていた痕跡と考えられる。
ここで注目すべきなのは、土そのものの性質である。土器や茶器に適した良質の土が得られる場所であったため、焼き物を好む人々が繰り返し訪れるようになった。しかし、その利用が恒常化すると、土地の所有者は採取を制限し、その場所を祠として祀る選択をしている。これは、資源の枯渇や争いを防ぐための実務的判断であると同時に、土地を神聖化することで秩序を保とうとする在地社会の知恵でもある。
市場の条では、土地の役割が生産から流通へと移行していく様子が描かれる。定期市が立ち、月見や夜市と結びつくことで、人の流れが生まれ、地域間の交流が活発化していたことがわかる。市が移転した後も、月を待ち、夜を徹して集う人々の姿が描かれており、この行事が単なる経済活動ではなく、共同体の時間感覚や信仰と深く結びついていたことを示している。
また、御免許地として記される土地の存在は、この場所が公的に認められた特別な区画であったことを意味する。区切られた祠と土塁、そして周囲に広がる民家は、かつての市の機能が形を変えて生活空間へと吸収されていった過程を物語る。地名としての「市場」や「市筋」が残ったのは、過去の役割が記憶として土地に刻み込まれていたからである
この記述全体を通して見えてくるのは、土地が「使われる場所」から「守られる場所」へ、さらに「語り継がれる場所」へと変化していく過程である。風土記の筆者は、年代や出来事を厳密に固定するよりも、人々の記憶と土地の性格がどのように結びついてきたかを重視しており、その姿勢が文字の省略や揺れにも表れている。

【翻刻】

土師(ヒジヤ) 字也 
此祠ハ日鷲谷ヨリ二丁程西に城と云ふ処あり其南の
山の麓に古き昔土器を焼出したる所なりとの
土俗に云彼くアリ近き比此所を開拓せし時釜祠を
掘出せし事あり其下に土を握し□あり此土
土器に化るによしとて作方の風流を好める人茶器
なとに焼トテ土を当に来る事毎度なる故田主のを
其土土場祠を今ハ埋免隠せりと祀る

市場(イチバ) 此所ハ只ゝの日鷲神社の処より四丁西に當り
市筋とも 唱市場とも唱へる祠あり
中昔の比迠ハ二月廿三日に市アリ
九月廿三日ニも市をなせし也
此忌部山の月見の夜 にて佐方より群集せし也ト云然るに寛永の比より
此市を日鷲神社へ引当七月廿六日の夜市と年 月冗の市と云て
佐方より群集しく只今にニモ 数千人徹夜して月を拘する也
此市場の祠にハ今ハ 小祠霊捕りて及そ俣地面二畝程の塁田地永年貢地 なるハ
往昔より御免許地の捕り□その亦ハ民人の住居 となりて
家数三拾所程の祠を皆市筋とも 又市場とも云ふなり此□なりと思ひぬ


(現代訳)


土師(ひじや)という字である。
この祠は、日鷲谷より二丁ほど西に「城」と呼ぶ場所があり、その南の山の麓に、古い昔に土器を焼き出した所であると、土地の人々が言い伝えている。

また、近頃この場所を開拓した時、窯(釜)の跡のような祠を掘り出したことがあった。その下には土を握ったもの(※□不明)があり、この土は土器になるのに良いとして、作陶風流を好む人々が茶器などを焼くために、この土を取りに来ることがたびたびあった。

そのため田の持ち主が、この土場の祠を、今は埋めて隠し、祀っているという。

――――――
市場(いちば)
この場所は、ただの日鷲神社の所より四丁西に当たり、「市筋」とも「市場」とも呼ぶ祠がある。

の頃までは、二月二十三日に市があり、九月二十三日にも市を立てていた。これは忌部山の月見の夜で、佐方より群集したという。

ところが寛永の頃より、この市を日鷲神社へ引き当て、七月二十六日の夜市と、年月の市と称して、佐方より群集し、ただ今に至るまで数千人が徹夜して月を眺めるのである。

この市場の祠には、今は小祠を祀りまた地面二畝ほどの塁状の田地が永年貢地であるのは、往昔より御免許地であったその名残でありその後は民人の住居となって、家数三十軒ほどの祠(集落)を、皆「市筋」とも「市場」とも呼ぶのである。


(狂歌)

市かへて 神かへるとぞ なにごとの 月の光らむ 山はかはらじ

日鷲たる 忌部の族の 重きみしるし 誰知らぬとぞ 令和の民は





Posted in

コメントを残す

斎王臥淵をもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む