

阿波國風土記 編輯纂
<筑波大学図書館蔵書 見開きNO29-30>
天村雲神社(翻刻)
祭神 天村雲命 伊自波夜姫命 二座 此社の在祠の字を雲宮と
御検地御帳にもあり當社の詰座の点村雲命と記ハ則
天手力雄命亦名 天石門別安国玉主尊の子にて在し
天日鷲命の御弟神にて亦御名ハ天二上命亦後ろ小橋命
亦一名射立神と神傳国史ニみへたり此社の在る処を雲宮
と云ひ其少西に小橋と云ふ地名あるハ 此雲国素戔里の
教にて神御名代の地と云ふならめ哉當社いわれハ
神社考の條に出す故慈にハ田九しわくしぬ
(現代訳)
天村雲神社。
祭神は天村雲命と伊自波夜姫命の二柱である。この社が鎮座する地は「雲宮」と呼ばれ、御検地帳にもその名が見え、当社の鎮座神として天村雲命と記されている。
天手力雄命は、また天石門別安国玉主尊とも名乗り、その子であるとされる。また天日鷲命の弟神で、別名を天二上命、のちに小橋命とも称した。さらに射立神ともいい、『神伝国史』にも見えている。
この社のある場所を雲宮といい、その少し西に「小橋」と呼ばれる地名がある。これは、この地が雲国素戔嗚に関わる神の名代の地であるためであろうか。当社の由緒については『神社考』の条に記されているため、ここでは詳しく述べない。
天岩戸別神社(翻刻)
祭神 天太玉命
天岩戸別命
伊自波夜姫命 三座
岩戸と云字の地に社あり
此社も前件同数神御名代の地なるべし
程社の謂れ忘長けれバ神社考の條に出しぬれハ
慈に田九わくし
(上部朱書き)
當社の祭神外の八幡宮の祭神とハ大ニカハリタル也如何の謂れなるにや
八幡神社 祭神 中央 誉田別尊 左座 比賣大神
右座 伊香色メ命
宮と云字の地に御詰座なり
此宮の字或宮の前 宮の辻 宮の東 宮千代座廟ナド
當社詰座年代ごと宮地より祠少し東へよりし祠ニ
古八幡と云小祠在御神託ありて々の社に遷宮
せしよし玉殿の内に□書納あり
當社内に矢磨石と云ふあり 忌部神 天村雲命 二神の
矢を磨たまひて云いわれ及
此社細川氏瀬詰村丸と云ふ地に居られし時
當社を氏神とあクめられしとなり
其館内に社を花りて崇教せしわ
其後瀬詰村の氏神として遷宮アリシト云
今の瀬詰村の八幡社也とそれニ
其謂にや當號の八幡宮行幸還御ならさる内にハ
瀬詰の八幡宮神移しなしと云
祭礼 正六八月 十五日也
今も楢崇教社にて 御免許シ高札御聴ヨリ□下及ミし
(現代訳)
天岩戸別神社
天岩戸別神社。
祭神は天太玉命・天岩戸別命・伊自波夜姫命の三柱である。
「岩戸」と呼ばれる土地に社がある。
この社も前に述べた社と同様に、神御名代の地であったと思われる。
社の由緒は詳しく長いため、『神社考』の条に譲り、ここでは省略する。
八幡神社
八幡神社。
祭神は中央に誉田別尊、左座に比賣大神、右座に伊香色メ命を祀る。
この社は「宮」と呼ばれる地に鎮座しており、宮の前、宮の辻、宮の東、宮千代座廟などの地名が残っている。
当社は、時代ごとに宮地から少し東へと遷座してきた。
古くは「古八幡」と呼ばれる小祠があり、神託によって社を移したという。
その由来を書き記した文書が玉殿の内に納められている。
境内には「矢磨石」と呼ばれる石があり、忌部神である天村雲命が矢を磨いたという由来が伝えられている。
また、細川氏が瀬詰村丸と呼ばれる地に居住していた頃、この社を氏神として館内に祀り、崇敬したという。
その後、瀬詰村の氏神として遷宮され、現在の瀬詰村八幡社になったと伝えられている。
このため、当所の八幡宮が行幸・還御の間は、瀬詰の八幡宮へ神を移さないという習わしがあるという。
祭礼は正月、六月、八月の十五日に行われる。
今もなお、楢崇教社として、免許の高札が掲げられていたことが伝えられている。
(複合解釈)
天岩戸別神社と八幡神社は、もともと別系統の神社として説明されているが、記述を突き合わせて読むと、同一の宮地構造の上に重なって成立した社であることが見えてくる。
天岩戸別神社は、「岩戸」と称される地に鎮座し、天太玉命・天岩戸別命・伊自波夜姫命の三座を祀る社である。この社も前に述べた社と同様、神御名代の地であったとされる。社の由緒は詳しく長いため、『神社考』の条に譲り、ここでは略されている。これは新出の神社説明ではなく、すでに述べられた内容を前提とした再掲であることを示している。
一方、八幡神社の条では、まず「当社の祭神は他所の八幡宮と大きく異なる」と朱書きで注意が加えられている。中央に誉田別尊、左座に比賣大神、右座に伊香色メ命を祀るが、この伊香色メ命は一般的な八幡信仰には見られない神であり、阿波忌部圏に特有の夫婦神構成を示す存在である。
八幡神社もまた「宮」と呼ばれる地に鎮座し、宮の前・宮の辻・宮の東・宮千代座廟など、宮地を中心とした地名が列挙されている。これは天村雲神社や天岩戸別神社で見られる「雲宮」と同質の、祭祀拠点としての宮地を指している。古くは宮地から少し東に古八幡と呼ばれる小祠があり、神託によって遷宮が行われたという伝承も残されている。
さらに八幡神社の由緒には、境内に矢磨石があり、忌部神である天村雲命が矢を磨いたという伝承が記されている。これは八幡由来ではなく、明確に忌部系の在地祭祀を示す要素である。また、細川氏が瀬詰村丸に居住した際にこの社を氏神として館内に祀り、のちに瀬詰村の氏神として遷宮したことが述べられており、武家権力による八幡化の過程が読み取れる。
以上を総合すると、天岩戸別神社と八幡神社は、もともと忌部系の神御名代地・宮地を基盤とする祭祀空間を共有しており、その上に後世、八幡信仰が重ねられた結果として併存・複合した社であると理解できる。八幡神社条に残る伊香色メ命や忌部神の伝承は、その在地構造が完全には消されなかった痕跡であり、両社は独立した存在というより、同一の宮地を異なる名義で語った記録と見るのが自然である。
雲宮という宮地の構造
雲宮は神社名ではなく、祭祀が行われた宮地・拠点を示す名称として反復して現れる。天村雲神社・天岩戸別神社・八幡神社はいずれも、この雲宮(宮地)を基盤として配置されている。
神御名代の地としての共通性
天村雲神社条・天岩戸別神社条では、ともに「神御名代の地」とされ、「前件同数」という表現で同一枠として扱われている。これは祭神の座数ではなく、同じ性格の宮地であることを示す記述である。
祭神の重なりと反復
伊自波夜姫命・天太玉命・天村雲命などの神名が、社を越えて繰り返し現れる。系譜説明よりも、特定の神が宮地に付随して記録されている点に特徴がある。
八幡化と在地祭祀の残存
八幡神社では誉田別尊を中心とする八幡祭神が置かれる一方、伊香色メ命や忌部神・天村雲命、矢磨石の由来が併記される。武家勢力による八幡化の中でも、在地の忌部系祭祀が消されずに残されている。
遷宮と宮地運用の記録
宮地から東への移動、古八幡の小祠、神託による遷宮、玉殿内の記録など、由緒説明よりも社の移動・配置に関する情報が重点的に記されている。
武家氏神化の過程
細川氏が瀬詰村丸に居住した際、雲宮圏の社を氏神として崇敬し、のち瀬詰村の八幡社へと遷宮したことが記録される。雲宮の宮地が、武家支配とともに社名・性格を変えていく過程がうかがえる。
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