

阿波國風土記 編輯纂
<筑波大学図書館蔵書 見開きNO-87-88>
(翻刻)
に号長者殿在本宮乾ト豊葦原ト定記ニ出タリ此社ヲ 鴨社ト云依之憲明案曰 此村神主 山 石の喜色なる長三尺 幅五六寸ナルニ神嶋の二次彫附朱を入此通ニ裏ニアリ 表ニ〇アリ下ニ天日の二字アリ此通の石を地中より堆此シたりト云 是石の埋れきしと云地此村の乾の方に當りて野中ニ 松あり小社ある祠也依しく思い只今の宮地と云ふ字の 処より乾に當る故是石の埋りたりと云ふ地の号に鴨の社 ありて宮地の祠に稲荷の本社ありしならんと思ひけらし ぬれども石の神躰と云い天日の二字ハ天日鷲の 改二字に冗せんグ為の追彫にて是ハ當時の神への 操り巧たる事にや阿らんのし是皆條郷名の 割阿やまりより思ひ左きたる横知慧と冗内也 其故ハ彼頃出したりと云神躰石忘新しきと冗内 是も是山写の□人ふ知とかき神社拝のを此詠抄に 鴨島を神島などと呼子守穣のをい□する知念ぞおかしき 右の口説も忘かなへりと□しいくり 麻植塚村 神麻山俗に□の山と云昔ハ綜麻杵神社と 云しト云 是も忌部神社と云なれ共此神名ハ号ハ阿らしい 憲明案曰此の神ハ伊香色雄命の親神ならんちと 思ひけらしも世免 是ハ記出忘正しきなり
(上朱書き)以下祭神之字の頭ニ〇を加シテ見合ベシ
大宣都比賣命保食神ハ同神ナルヲ如此二神の柱ニ祭りタルハ
奉仕シ者甚拙キ事也トヤ思ヒツベシ
(朱書き終わり)
其子細ハ天日鷲の神社と云ぞして正しく云あり
牛の島大宮八幡宮
天日鷲命 天太玉命 作麻美命 天富命
大宣都比賣命 保食神
此祭神ハ前ニ祭
麻笥五ツ中ニ麻苧ヲ納六神トス
奥殿の祭神五座
應仁帝 仲哀帝 神功皇后
武内大臣 仁徳帝
三女神 前後合十五座
右前の神六座
中昔麻植塚麻椿石の上エ
大水の時流来リシト云
奥座の八座ハ往古ヨリの本宮ト云
此村ハ牛の嶋ニてなし
忌部神大水に漂着世し故
渚藝ニ傑タル者を大人(ウシ)と云
故大人(ウシ)の島と云
諸説ハ牛の島神社の部に
委く出しぬれバ慈川田九スと
憲明案曰
諸説皆いぶかしきなり
天日鷲命此地ニ御在世ヨリ
住たとふ故大人(ウシ)の嶋と云ひ
又洪水の時漂着世しを
此社地に移世しと云
一モ治定の説なし
又一社に祭神前後合十五座を
数教セしと云
い謂れの社ニても
祭神ハ三座ク五座也
忘多雑也是もかの社領を貧んた免
前の六座の神ハ奉仕の□欲心ニテ□ヨリ
添たるをと冗内る也
且亦神彼国史ニ
忌部の神牛の嶋に阿りとハ
更に見欠
別當社僧の操ナルベシ
以前の如く神社拝の
草橋の詠変アリし
(現代訳)
記録によれば、この地には「に号長者殿」が本宮の乾(いぬい)方に鎮座するとされ、豊葦原と定めた記事が見える。
この社を「鴨社」と呼ぶ。
これについて憲明は次のように考えた。
この村の神主が伝えるところによれば、山の石で喜色を帯びたものがあり、長さ三尺、幅五、六寸ほどである。その石には神嶋を二段に彫りつけ、朱を入れた跡があり、裏面にも同様の刻みがあり、表には丸印が一つ、その下に「天日」の二字が刻まれているという。
この石は地中から掘り出されたものであると伝えられている。
この石が埋まっていたとされる場所は、村の乾の方角に当たる野中で、松があり、小さな社の祠が建っている。
そのため、現在「宮地」と呼ばれている場所から乾に当たるところを、石の埋まっていた地と称し、その地名から鴨社があったと考えられ、宮地の祠には稲荷の本社があったのではないかと思われたのである。
しかし、石を神体とすることや、「天日」の二字は天日鷲命の名を改めた二字であり、後から彫り足されたもので、当時の神に対する巧みな操作であったのではないか、とも思われる。
これらはすべて、郷名の割り当てを誤ったことから生じた横知恵であると、憲明は述べている。
その理由として、当時掘り出されたとされる神体の石が、あまりにも新しいと感じられる点を挙げている。
また、神社参拝の際に詠まれた歌抄において、鴨島を神島などと呼び、子守・穣の意味に引き寄せて解するのも、いかにも不自然であるとしている。
こうした口伝も信じ難いものとして退けている。
さらに麻植塚村について述べる。
この村には神麻山があり、俗に□の山と呼ばれている。
昔は「綜麻杵神社」と称したと伝えられるが、これも忌部神社と呼ばれているものの、その神名や号については確かな伝えがない。
憲明は、この神は伊香色雄命の親神であろうと考えたが、これは世に免じて記した推測であり、正確な記録に基づくものではないと断っている。
続いて、祭神に関する朱書きの注記がある。
「祭神」の字の頭に丸印を付して照合すべきであり、大宣都比賣命と保食神は同神であるにもかかわらず、二柱として祀っているのは、奉仕する者の拙さによるものであろう、という内容である。
牛の島大宮八幡宮について正しく述べるならば、祭神は
天日鷲命、天太玉命、作麻美命、天富命、大宣都比賣命、保食神である。
これらの祭神は前殿に祀られ、麻笥五つの中に麻苧を納め、六神として扱われている。
奥殿の祭神は五座で、
應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、武内大臣、仁徳天皇である。
さらに三女神を合わせ、前後合わせて十五座とされている。
前殿の六座の神については、昔、麻植塚の麻椿石の上にあり、大水の際に流れ着いたと伝えられている。
一方、奥座の八座は、往古よりの本宮の神であるという。
この村は元来「牛の嶋」と呼ばれていたわけではない。
忌部の神が大水によって漂着した際、渚の技に優れた者を「大人(ウシ)」と呼んだことから、「大人の島」と称するようになったという説がある。
こうした諸説は、牛の島神社の項に詳しく記されているが、憲明はそれらをいずれも疑わしいとしている。
天日鷲命がこの地に在世して住んでいたから「大人の嶋」と呼ばれたという説や、洪水の際に漂着した神をこの社地に移したという説もあるが、いずれも決定的なものはない。
また、一社に祭神を前後合わせて十五座も数えたというのも、由緒ある社としては不自然であり、本来の祭神は三座、もしくは五座であったはずである。
多く雑然とした祭神の配置は、社領を豊かにするため、奉仕者の欲心によって他所から神を付け加えたものだと考えられる。
さらに、国史において忌部の神が牛の嶋にあったとする記述は見当たらず、これは別当社僧の作為であろうとされている。
以前に見られたような、神社参拝に伴う草稿の詠の変化も、その一例である。
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