初頁からの重複と思いきや これは明治風土記写本編纂係のメッセージだと思っています
この阿波国風土記写本には 差し込み記事があると教えてくれています
筑波大学蔵書5-6重複ナンバリング
表紙朱書:阿波國風土記 編輯纂NO5.6
筑波大では(付箋)あるなしで
同ページを5/6頁として分類しているようです(と思ってましたけど編纂の意図があるようですね)
忌部心と撰定の神意構造 ―「天気杓振撰之為」にみる斎の選び
麻植郡忌部郷の末句「桎依ニ天気杓振撰之為」は、
地名を定めるにあたり、
天の状況を基準とし、占的な所作をもって撰び定めたことを記す。
ここでいう「撰」は単なる判断ではなく、
天と向き合う行為そのものとして記されている。

阿波國風土記 巻之一
第五頁右 麻植郡 忌部郷
麻植郡 忌部郷
木屋平村(朱:五を右に訂正)
川井山(黒小:枝村古き一村)
(朱小:南張山)
三三ッ木山(黒小:枝村古き一村)
(朱小:樫原山)
別枝村
(黒小:以上四ヶ村諸*さる也未考なり)
(黒小:人別*シタル故*本より別レタル故別枝トナル)
種野山村(朱上部:壹)
(朱:此村忌部郷根本也是故左右ニ別ル也)
東山村(朱:左ニ)
此村諸説未考
(+□)種野村*東なる枝東山といふなり**
(朱:此村憲明考ハ川島郷也)
(+□)此村**未考*依天気**撰之焉
第五頁右 麻植郡 忌部郷
――現代訳――
麻植郡のうちに「忌部郷」という地域がある。
この郷には、もとよりいくつかの山村が属していた。
その一つが木屋平村であり、記録の一部には「五村」を「右四)」に訂正した注記がある。
木屋平村に連なる枝村として、川井山がある。
古くから一村を成したという。
さらに南張山
そして三ッ木山(みつぎやま)とその枝村があり、
同様に古村として記されている。
このうちの一つに樫原山(かしはらやま)**が含まれている。
これら四つの村をまとめて、
昔は「別枝村」と呼んでいた。
その由来は、
人々の戸籍や村の区分を改めた際に、
もとあった郷(忌部郷)から分かれたことによると伝わる。
つづいて種野山村がある。
朱書には「壹(いち)」とあり、
この村こそが忌部郷の根本(ねもと)であり、
その中心として左右に枝村を分けている、と注記されている。
またその東に東山村があり、
これについては諸説がありながら、まだ定説がないと記される。
さらに、薄墨で補記された部分には、
「種野村の東にある枝を東山といい、(憲明の考によれば)この村は川島郷に属す」とある。
そして末尾には、
「この村の起こりなど、いまだ詳らかならず。天候や地勢により撰び記したものである」との文で結ばれている。
第五頁左(翻刻)
麻植郡部
阿波國風土記 巻之一
久富憲明謹
麻植郡部
抑此阿波の国麻植郡云ふ郡名の起源たるや 天照皇太神 御弟神素戔嗚尊溺汚於新嘗祭宮又屬 太神自織神服 剥天斑駒投諸室中 大日霎貴驚動入天石窟閉戸幽居 為六合の中不辯「記憶持越・境界固定」書夜於是群神會天安河相謀娶長鳴 雞堀取香山五百真阪樹懸以瓊鏡監青白幣功績のいと 高き神等のその中に炳然 天日鷲命そこ神武天皇の
(現代訳)
阿波国麻植郡という郡名の起こりは、次のような出来事に由来するとされている。
天照皇太神の弟神である素戔嗚尊が、新嘗祭の宮において乱暴をはたらき、穢れをなした。さらに、天照皇太神が神服を織っておられた機屋に、天斑駒の皮を剥いで投げ込んだ。
この出来事により、天照皇太神は驚かれ、天の石窟に入って戸を閉ざし、そこに隠れ住まわれた。その結果、天地のあいだは暗くなり、昼夜の区別もつかなくなった。
そこで群神は天安河に集まり、どのようにして天照皇太神に再びお出ましいただくかを相談した。長鳴きする鶏を集め、香山の五百真坂の木を掘り起こし、その枝に瓊の鏡や青白の幣帛を懸けた。功績ある高天の神々が居並ぶその中で、ひときわ明らかに姿を現しているのが天日鷲命であり、この神はのちに神武天皇の時代へと連なっていく存在として示されている。
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