

阿波國風土記 編輯纂
<筑波大学図書館蔵書
見開きNO-57>
産物は桑藍米麦栗大豆小豆芋の(起)にて 格別の□しき□ハ此来ぬなれどもふ思儀に繁昌 クハいともかしなき大社神守護なしいふ □□やと思ひけらしもせやんこの村芳より名誉のひとなりしいう*なり □阿波の国開拓の主祖忌部祖の神天日鷲命 天太玉命又神武上皇八代の上皇孝元天皇より 此さ世のふ武内大臣の宿禰仁徳上皇まで六朝に 仕させたまひ補佐の□ともよばれのふ本朝□二乃 忠(屋?)阿波の国を領知したまひ子孫源平□合戦まて□□せし阿波民部少輔子息 武内左清篤*後裔今越後国長岡城主なりぬ 牧野備前局居御先祖此村より出たると□云彼ふ □承元年小笠原左京右史長時阿波国 守護職に任し阿波局と成是ハ三好の先祖也 延元二五年従足利将軍尊氏ヨリ細川刑部左史 来□□四国の□補管領職ニ坂東郡勝瑞村ニ 屋形を□く居住ス此三好家ハ細川家の家老職にて 三好義賢主君細川家を撰領して阿波の玉
及四国を納め*□州當村□□の城主
篠原弾正抄弼入道紫雲
嫡男同大和守歳十八歳ニテ元亀三年壬申七月十六日父
与同時ニ討死ス
家領千五百貫
紫雲の□門跡の息女にて阿りし
グ落城の時家来田辺
野左史庄野和泉守□人
沫内宝の男鶴石丸ヲ伴いテ
紀州に移りしなり
□□篠原氏ハ三好家の家老職也
□□今も礎ハ多い□り阿るなり
今ハ此社内宮左神宮の
神霊を移して村中の氏神となり
且景地にて其ハ
群居なして振ふなり
□□といふ地名も景地故に□を
篠原家の先代にこへたることのならんかし
現代訳
この村の産物は、桑・藍・米・麦・栗・大豆・小豆・芋などである。
(起)と記されているが、特にこれといって格別の□□が
昔からあったわけではない。
しかし思うに、この村は繁盛しており、
大社の神の守護があったからであろう。
□□であったと思われる。
この村の芳より名誉の人となったという*である。
阿波の国を開拓した主祖、忌部の祖神・天日鷲命、
また天太玉命は、神武天皇以来、八代の孝元天皇に至るまで
仕え、その後も武内宿禰・仁徳天皇まで
六代に渡って朝廷に奉仕し、補佐の□□と呼ばれた。
この本朝□□により、阿波の国を領知された。
その子孫は源平の□合戦まで□□し、
阿波民部少輔の子息・武内左清篤*の後裔は、
今は越後国長岡城主となっている。
牧野備前局の御先祖は、この村から出たと□□□□という。
承元年(鎌倉期)、小笠原左京右史長時が阿波国守護職に任じられ、
阿波局となった。これが三好家の先祖である。
延元二〜五年、足利将軍尊氏より細川刑部左史が派遣され、
四国の□□の補管領職として、坂東郡勝瑞村に
館(やかた)を□□構えて住した。
この三好家は細川家の家老職であり、
三好義賢は主君細川家を補佐して阿波の玉(=阿波国)を治めた。
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四国一円を治めていた□州(出身)の、
当村の□□の城主・篠原弾正少弼入道紫雲には、
大和守という十八歳の嫡男がいた。
元亀三年(壬申)七月十六日、
父と同じ時に討死した。
家領は千五百貫。
紫雲の□門跡の息女を妻としていたが、
落城の際、家来の田辺・野左史・庄野和泉守らが
内宝の男子・鶴石丸を伴い、
紀州へ落ち延びた。
篠原氏は三好家の家老職である。
今もその礎は多く残っている。
この社に、かつては内宮左神宮の神霊を移し、
村の氏神として祀った。
この地は景勝地であり、
人々が集まり栄えていた。
□□という地名も、
その景観によってそう呼ばれたのであろう。
そして、
「篠原家の先代に越えたことなのであろうか」
と記されて終わる。
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