

阿波國風土記 編輯纂
<筑波大学図書館蔵書 見開きNO-41~42>
翻刻(右善福寺条)
右善福寺別家
細川指賢(2/)三ツ嶋へ移りて□ハ浄土真宗の寺となり□しかくると/改免其後学□し移るにハ今も阿り/
細谷伊十郎 細谷教左 細谷由左郎
此三家ハ善福寺より真別家なり
若次當代 若次今ハ用左 是ハ細谷指十郎(2/)よりの/別れ也/
慶□□□是ハ由左郎家より別れたる家也
橘田彦三郎(2/)是ハ此村ニての鳶家に併る姓にして、何も/鳶社なる事いなし/
此村伊左郎以事之於い鳶社考の條に□ス。
(終わり)
現代訳
この村の善福寺には、かつて細川氏の一族・細川指賢が関係しており、
三ツ嶋へ移ったのち、この寺は浄土真宗の寺院となった。
その後も改免(寺格または領地改免)があり、
学問に関わる者が代々移り住み、今もその跡がある。
細谷伊十郎・教左・由左郎の三家は、
この善福寺から分かれ出た真の別家である。
うち「若次」が当代、「若次今ハ用左」とあり、
これは細谷指十郎から分かれた家筋とされる。
慶長の頃には、由左郎家からさらに新たな分家が起こった。
また、橘田彦三郎という者は、この村で**鳶家(とびけ)**に連なる姓を名乗ったが、
実際には鳶職や鳥に関わる家ではなく、単に地名由来の姓である。
この村の由来は、学村善福寺と関係があり、
慶長七年(1602)までにはこの村が成立していた。
そしてその後、伊左郎がこの事をもって『鳶社考』という記録の条に書き記した(奉述した)のである。
🩶補記:
- 「鳶社考」=村史・社記をまとめた写本の一条。
- 「以事之於い」=「この事について」意。
- 終字「□ス」=「奉ス/申ス」系の未確認略字、保留扱い。
翻刻(学村条)
学村 此村往古ハ吉岡村と云し村也
此村いわれ根元吉岡村と云しハ此村巳の方より坤の方まて
南ハ一免本山村にて西ハ山崎村 祠ハ三ツ嶋村児島村 東ハ
桑村にテ□し 祠ハ山に□て高く 大水の時参八名
の地に登りし祠 吉野川の大水を見渡し□此□ぃ
(な/よ)き思なりと云しによりてかくわ云し□なり
□るに□渡楽村となりし謂れハ天平年中ニ此
聖武天皇諸国御巡幸折柄 此村ニ御□阿りし□ふ思儀
と虚空に此□□□し 中に音楽の音しニ*異番
薫しける故帝の作せとい此□□□釈尊□法輪
(終わり)
現代訳
この学村(まなびむら)は、昔は吉岡村と呼ばれていた村である。
その名の起こりは、村の地形に由来する。
南は一免本山村、西は山崎村、東は桑村に接し、祠(ほこら)は三ツ嶋・児島の両村と同じく山上にあり、
大水の時には「参八名の地」に登って避難するほどの高所であった。
その祠からは吉野川の大水を見渡すことができ、
「此の清き思ひなり」と語られたことから、この地をそのように呼ぶようになったという。
のちに村名が**渡楽村(とらくむら)**となったのは、天平年間のこと。
当時、聖武天皇が諸国を巡幸された折、この村に立ち寄られ、
ある夜、空中に楽の音が響き、異香がただよった。
人々はこれを帝の御感得(みこころの動き)と伝え、
その事を釈尊の法輪(ほうりん)の顕れとして語り伝えたのである。
翻刻
之の処なりとて御駐蹕有り、一寺を建立ありけるに、
如意輪観音の理爰(より)により行基菩薩に倉舎あり、大悲の尊像を彫刻なして世たまひ、
此慈悲大(なる)と勅号を給り、
佛像供養廟(くようびょう)天人影向して音楽を奏しけふ、此時に、
楽村と村号を御改あそばしたり、其渡号(わたりごう)西八郎源為朝、
強弓をあらんと當村にありし思より倉村聖院に於いて、
入道抄加に有りし時、庇の框を的にして射たるに、框を射通したり、
其時傍のを思ひ、如く勢は古よりかつくあるまじと賞美しけるに、
及友の曰く、藝とも学びぬれば妙街(みょうがい)と云ふ、此来るなりとありしかば、
村内のを学に志かじと志を決す。
此時より学村の文字に又改めたりとなり、
里拓は善勝也升家来の祠に渡りて、茲に田九しといふ。
訓読
この地に御駐蹕ありて、一寺を建立し給ふ。
如意輪観音の理爰により、行基菩薩に倉舎あり。大悲の尊像を彫刻なして世にたまひ、
此の慈悲大なると勅号を賜ふ。
佛像供養の廟に天人影向して音楽を奏しける。この時に、
樂村と村号を改めあそばす。
その渡号は西八郎源為朝、強弓を現はさんとて當村にありし思より倉村聖院に於いて、
入道抄加にありし時、庇の框を的として射たるに框を射通す。
その時傍らの者これを見て、「かく勢あること古より稀なり」と賞美しけるに、
及友の曰く、「藝とも学びぬれば妙なり」と云ふ。この語り来たるなり。
かくして村の者みな学に志すと志を決す。
この時より学村の文字に改むといふ。
里を拓きしは善勝也升の家来にして、祠に渡り、この地に田を九(たく)したという。
麻植郡部
(学村号名別の事)
辻之門 東より此村ハ検地の□□しの場所なりと云と。
唐人(からうと) 応神天皇の御時、新羅の国より貢にせし
機織の女貢をせしたる祠なり、其の云ひ彼くなり。
又、此所呉朝の戸籍のを住たり祠、故に哉庵戸とも出也。
吉本 此地ハ此□字を名乗るとの居たる故に名附てるといふ。
参八 此の参八祠へ詣ふ道阿りてかく云し。
東学 学村の東へ附し祠、故にかく云ふなり。
近久 近久と名乗しを、此地すかて大ニ立栄したる故と云ふ。
(学村号名別の事)本文・現代訳対照
辻之門
東の方からこの村は検地の際に定められた場所であるという。
(訳)東の方にあるこの村は、検地の際に土地を区分した際の地点であると伝えられている。
唐人(からうと)
応神天皇の御代、新羅の国から貢物として機織の女が渡来し、
その女を祀った祠である。そのように伝わっている。
(訳)応神天皇の時代、新羅から機織の女性が貢ぎ物として来日し、
その女性を祀った祠がここに建てられたという伝承が残る。
哉庵戸(かなと)
また、この地は呉の時代の戸籍に名を留めた祠であり、
そのため「哉庵戸(かなと)」とも称される。
(訳)この地は呉朝の戸籍に記された祠であり、
そのため古くは「哉庵戸」と呼ばれていた。
吉本(よしもと)
この地は、かつてこの字(あざ)を名乗る者が住んでいたことから、
その名がついたという。
(訳)この場所に“吉本”という字名を名乗る人が住んでいたため、
その名を取って地名とした。
参八(さんぱち)
この参八の祠へ詣でる道があり、そのためこの名がついた。
(訳)参八の祠へ通じる道があったので、その通り道にちなみこの名となった。
東学(とうがく)
学村の東にある祠であり、そのためこの名がついた。
(訳)学村の東側に位置する祠であるため、「東学」と呼ばれた。
近久(ちかひさ)
近久と名乗る者がこの地に住み、
この地がやがて大いに栄えたため、その名が伝わったという。
(訳)“近久”という名の人物がこの地に住み、
のちに村が栄えたため、その名が地名として残った。
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