

:阿波國風土記 編輯纂
<筑波大学図書館蔵書 見開きNO-46-47>
翻刻(當村鳶家の事)
(當村鳶家の事)
加藤直左郎 當代を加藤尉之進 田中佐郎と云も(2/)学村和尚の/庄屋なり/
加藤直左郎之別家只今ニ分家加藤昇花(s/の家なり)
大椋茂十郎 島田官兵衛 前坂三重郎 方 加藤氏の先祖豫州河聖家へ仕居*
當村悲大寺の住村豫州より来り導師学村参入るし地ニ開拓所なれバ
家業流立抗記命本国の事故帰国して住居ニし當村ゝ至附初代忠左史介忠扛隻八大坂御陣ニ立即
翻霊否事為ニ従ひけるに所抱疵をうけ帰国の時淡州福良浦迠帰り閏所ニテ死去せりと云
加藤尉之進を先祖 南海□乱の節別枝山川又ニし
討死所しし捨系国ニ阿り
林利是清先祖 家康公大城公馬大坂合戦時
伊是清らして□事□閏して此村住居
所せし明勢沫棟附し時垂伎郷付戻人これ戻記アリス
現代訳
この村の鳶家について記す。
加藤直左郎の家筋を継ぐのは、当代の加藤尉之進と田中佐郎であり、いずれも学村の和尚であり庄屋である。
直左郎の別家が今の分家、加藤昇花の家である。
また、大椋茂十郎、島田官兵衛、前坂三重郎らがその一門に連なっていた。
加藤氏の先祖は、もと豫州の河聖家に仕えていた。
この村にある悲大寺の住人は、豫州から来た者で、導師として学村に入り、土地を開拓した。
その家業が盛んとなったが、本国に事が起こり帰国し、その地を住居とした。
のち、この村に至って初代・忠左史介忠扛隻八は大坂の陣に従い、
戦いの折に負傷して淡州福良浦まで戻り、そこで亡くなったと伝えられる。
加藤尉之進を遠祖とし、南海の乱の折に別枝・山川氏とともに戦い、討死したと伝えられる。
林利是清の先祖は、家康公・大城公馬の大坂合戦の際に従軍し、
伊是清の命を受けてこの村に住居を定めた。
やがて明勢沫棟に属し、垂伎郷の「戻人」として記録に名が残る。
(字の事)
下条の辻 八反地 小渕 森の下
泉やしき 松の□ 馬やしき 此名ハ名眉左近近左郎
こいじ 神の木 此地ニ荒神の社在 ながれ よしもと
□木 こだけ 横まくら 杦の木 ひ□の木
アリ慶寺坐の前 東門 うるしの坪 菖蒲池
汁とみ 辻冗坐 □千代 辻やしき 是ハ鳶家間直左郎やしき
すぎ谷 □□ガ門 大やしき 六反地
七又せん□ 辻池の木 田中□□ 左郎□先祖の居地
うるし□ のつご □てのくぼ つぼ池 つぢ池
祠くぼ せんざの東 すみ田 みぞの浦
大せん□まく 天神の祠 川ぶち □つ□
鴨生み よだい くかわら 王地 堤の内
□のくぼ 黒戸の□祠 □村井 のつご ほて
むくら 長原 笠松
(池の事)
二ツ森の下に 大池あり森池と云 延命寺の
阿りし下に此寺森の坊とも云し故にやかく
言彼へたり
かづら池 森池より三超左かり東なり 何もいわれハなし
終わり
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