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斎王臥淵

筑波大学図書館所蔵『阿波國風土記編輯雑纂』翻刻
同図書館情報提供済

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阿波国風土記 一巻 48~52

神主家の事

此村に古城阿り 城主多田筑前守 元次 源氏武田姓
家の紋雲地獅子高麗犬也
寺院の部

本尊薬師如来 薬師寺
本尊阿弥陀如来 紫雲山 前勝寺
當寺の由来 学村のいわれの号に謂らく根元
足利将軍源尊氏
當阿波国細川刑部大夫頼春
なるをに阿波讃岐伊豫土佐四州の管領職居置セられ
板野東郡勝瑞村居城ス屋形号ヲ延文二年丁酉年八月
後光巌天皇より宝給り城郭美麗ヲ畫シ権ヲ専ニス其後
十二ヶ国之官領トナル依テ阿波国守守護職小笠原長房
坂東坂西海部秋月美馬大西等之諸村皆細川家ノ
幕下ニ属ス頼春ヨリ九代之孫讃岐守持隆家臣
三好豊前守義賢之為ニ天文二十市癸子年八月十九日
勝瑞村見性寺ニ於テ自害ス法號徳雲院殿獄麟大居士
応仁二年戌子年 東山将軍源義政ヨリ細川頼春十一代
後胤同源朝臣直二男細川左京大輔持賢領知
阿波国麻植郡忌部郷田畠三百町無桐違被下置種野村
南の城ヶ丸の居拝地ヲ去テ持賢ハ三ッッ嶋村ニ閑ニ居セラレ
柳の坊と云ふ地に在シ持賢入道釈了正ト云嫡子一丸
工藤伊賀進ニ依るり摂州大坂石山城本願寺彰如上人ニ
隋身シテ弟子る相成釈正心ト法名ヲ賜り則真向之
本尊に御裏書給り天正二甲戌年三月阿波三ッ嶋村
彰主釈正心ト云く上人御加*御文章給り此二祠在
帰国し三ッ嶋村柳の坊に居住し代ゝ當村ニ安置する者也
然るに持賢末子千寿丸ハ同郡山崎村城谷の西山ニ
閑居シ後一品親王法務官修験者之御本山聖護院ニ
御末流千寿院□れ事程此由来ハ千寿院の祠ニ□り
茲に田久し玄海□俜ふ長曾我部宮内□泰元親
依逆意四□の局い幸村を焼い志を□の信ハ□千万倍
報之の願望此豊臣氏微なる時三天大黒天を破滅して
天才を掌にするの□京□ニお**大仏殿建立せしと云
□の如くならんのしさなくバ万世に高名を彼る英雄
超意もなきになん□□益の乱となをれやと思ひ
けらしぬ是此の事にしあれバ細川家の支流の族
皆号領を失ひ東西に離散して或僧となり為ハ修験者 となりニし後世の糊古キ使せしとのならん則當寺の いわれも如斬*ニヶ国の管領な里し家にして前件の如く なりしにい坐も難しき事に思ひひそべらかして當院ニ学村ニ 長居をする内芳野川洪水にて三ッ嶋村の氏家悪く 水中に漂し村善勝寺ハ細川家の後胤たる故石礎 普請も他家よりは高く警及し事故庭上へ*也ニの 祠物流れ来るを拾ひ上なり中に神像ニ躯 箱ニ入流れ来しを拾ひあけたるに女神ぃ児子□□ニ□
彦神ハ衣冠正しき姿の神秘也 □ニ 是此兵乱*凌
且ハ農家も大困窮の時節なれバ 産神再興も此身
かしいく星霜を歴しとのならん 今に當院に其神像を
先祖細川家代ゝの霊神霊佛を尊祟するにましく
祭り来れりと云ふ 是此の事ならん 三ッ嶋村なる
天水沼彦命 水塞姫命 式内ニ社の神流出して
其後を只ゝ国村泉の元なる地の水の神と云ふ小祠
の鳶神秘 善勝寺に納り ニ座の神に引合なり
と思ひけらすい 憲明グ考 にておわしぬ 然るに此
善勝寺の元寺悲大寺の時 元徳年鎌倉賊北条
方時 後醍醐天皇の王子尊良親王を此州に
左遷奉りける 沫村 親王の鳳輩 此村に沫鴎幸
何られ 沫架づから 椿の枝を 此の門の左側に
投たまふに 馬に根芽を生し 繁茂して 此も
當院境内に 大樹となりて 杉あり 我るに天知とひ
長曾我部氏の兵火のた免に 焼失して荒地に
なりたるを 善勝寺八世の住村□公□代中
蜂須賀家の沫吏 笹部左助と云ふ人々
□願 家老


【現代語訳】

神主家のこと

この村には昔、古い城があり、
その城主は 多田筑前守・元次 で、源氏武田流の家柄であった。
家紋は「雲地獅子・高麗犬」である。


寺院関係

本尊薬師如来を祀る薬師寺、
本尊阿弥陀如来を祀る紫雲山前勝寺がある。

当寺の由来としては、学村と呼ばれるその名の根元は、
足利将軍・源尊氏、
そして阿波国の細川刑部大夫頼春に始まる。

頼春が阿波・讃岐・伊予・土佐の四国四州の管領職に任ぜられ、
板野郡東部の勝瑞村に居城を構え、
延文二年(丁酉)八月に後光巌天皇より恩賞を賜り、
城郭を美しく整え権勢をふるった。

その後、十二ヶ国の管領となり、
阿波国守護職として
小笠原・坂東・秋月・美馬・大西らの諸村を
細川幕下として治めた。

頼春より九代、
その子孫にあたる 讃岐守・持隆 の家臣、
三好豊前守義賢 に仕えていた 持賢(持隆の系統)は、
天文二十年(癸子)八月十九日、
勝瑞村の見性寺で自害した。
法号は 徳雲院殿・獄麟大居士。

応仁二年(戌子)、
東山将軍・源義政から、
細川頼春の十一代の後胤にあたる
細川左京大輔・持賢 が領地を与えられた。

その領知とは、
阿波国麻植郡・忌部郷の田畠三百町で、
“無桐違” として安堵され、
種野村・南の城ヶ丸に屋敷を構えていたが、
持賢は三ッ嶋村に隠棲し、
柳の坊という地に住んだ。

持賢の入道名は 釈了正。
その嫡子「一丸」は
工藤伊賀進 に従って摂津の大坂・石山本願寺の
顕如上人 に随身し、
弟子となって 釈正心 の法名を賜った。

のち天正二年(甲戌)三月、
阿波三ッ嶋村で顕如上人より
御加判・御文章 を授かり、
この二つの祠を持ち帰って
三ッ嶋村・柳の坊に安置するものとなった。


千寿丸のこと

持賢の末子・千寿丸は、
同郡の 山崎村・城谷の西山 に隠棲し、
のちに一品親王(皇族)が管領する
修験者の本山・聖護院の末流
千寿院 の僧となった。

その由来から、
千寿院の祠に□□し、
ここ(学村)に田を拓いたのである。


長宗我部元親との戦乱と流離

その後、
長宗我部宮内(元親方)□□の逆意により、
四□の局(戦乱)で幸村を焼き、
志を□□□。

「報いは千万倍に」と願い、
豊臣家が衰えた折には
三天大黒天の霊験によって
天下を掌中に治め、
□□京□□に巨大な大仏殿を建立したと伝えられる。

それが成らなければ、
万世に名を残すこともなく、
この乱は何の益もなかったであろう──
と思われる。


持賢流の没落と寺の由来

このような事情から、
細川家の支流の一族は
皆、領地を失い、東西に離散し、
ある者は僧となり、
ある者は修験者になった。

その後、糊口をしのぐため古い書付を使ったりし、
それが後世に伝わり、
当寺の由来もまたその一環として語られるようになった。


学村・洪水・祠の流入

彼らが当院・学村に長く滞在している間に、
芳野川が洪水となり、
三ッ嶋村の氏家が流され、
村は悪く損なわれた。

村の善勝寺は細川家の後胤であったため、
石垣の普請も他家より高く、
そのため洪水で流された祠が
寺の庭に漂着した。

それを拾い上げて開けてみると、
中には 神像の躯(木像) があり、
箱に入ったまま流れ着いたものであった。

それをあらためてみると、
女神と児子□□ニ□ が安置されていた──。
訓読(文意を壊さず、読み下し)】

彦神(ひこのかみ)は衣冠ただしき姿の神秘なり。
□に、これ兵乱*をしのぎ、
かつは農家の大困窮の時節なれば、産神の再興もこの身、
かしいく星霜を経しとなるべし。

今に当院にその神像を先祖細川家代々の霊神・霊佛として
尊祟(そんすい)するにましく、祭り来れりという。
これこの事ならん。

三ッ嶋村にある天水沼彦命・水塞姫命、
式内の社の神流れ出(い)でて、
その後を只ゝ国村泉(こくそんせん)の元なる地の
水の神と云う小祠の鳶神秘(とびじんぴ)、
善勝寺に納まり、二座の神に引き合わすなり
と思いけらすい(=けらしぬ)憲明ぐ考にておわしぬ。

しかるに、此加嶋主水殿沫写届及ひし寛永四年丁亥の
十一月方物領へ伝信シ山崎村より當地に移り
只ゝニ桐漢佛光寺沫門跡の来るニて連綿と
法□仕浄ち真家にておこしぬ但し寺地畠地を麦七畝程
程ハ沫検地沫性分*免許地にて伽藍のあと
蓮池ハ記あい月三反條阿りしグ□作集三年ハ検地
□□□をし名眉地とし行□シて此地の字ハ
詰守の元とて則悲大寺の法まもるなりと記彼く
いかニも宝来久しきちにてあわしぬ


【 現代語訳】

彦神(ひこのかみ)は、
きちんと衣冠を整えた端正な姿の“神秘の像”である。

この像は、兵乱をしのぎ、
また当時、農家が大いに困窮した時節であったため、
産土神の再興を願って長い年月を守り伝えてきたものであろう。

今も当院(善勝寺)では、
これを細川家代々の祖先の霊神・霊仏として
大切に祀ってきたという。
これがその由来なのである。

三ッ嶋村に祀られていた
天水沼彦命(あまのみずぬまひこのみこと)、
水塞姫命(みずせひめのみこと) は、
式内社の神が流失したもので、
のちに只々国村泉(こくそんせん)の元にある
“水の神”を祀る小祠・鳶神秘(とびじんぴ)が
善勝寺に奉納され、
二座の神として引き合わせ祀られることとなった、
──と考えられる。

これは、(写本編纂者である)憲明 の考証によるものである。
善勝寺のもとの寺である悲大寺があったころ、
元徳年間、鎌倉方の北条氏の乱の時、
後醍醐天皇の皇子・尊良親王がこの阿波の地に
「左遷されて」お移りになった。

その際、沫村(あわむら)にて、
親王に従ってきた鳳輩(供の者)が、
この村に立ち寄られたおり ——
《何らかの理由で/難を逃れて》
沫架づる(=沫村へ架かる・寄寓する)かのように、

椿の枝を、この寺門の左側へ投げ置かれた。

すると、その椿の枝が「馬の踏みつけにもかかわらず」
芽を出し根づき、繁ったという。

やがて当院境内の大樹となり、
杉と並び立つほどの木になった。
これを「天知の木」といったという。

その後、長曾我部氏の兵火によって寺地は焼失し荒地となったが、
善勝寺八世の住職の□□公の代のころに、
蜂須賀家の役人である 笹部左助 という者に
村人たちが□□願い、家老に取り次がれることになった。

(※終行の「□願 家老」は
 「願い家老へ(取り次ぎ)」の意味筋に合致。)

加嶋主水殿が寺に宛てて写し届けを出したのは、
寛永四年(1631・辛亥)の十一月であった。

その頃、方物領より伝達があり、
山崎村からこの地へと移ってきた。

そして、桐漢・佛光寺門跡の系統が絶えず続いていたため、
その法系に従って浄土の法を修し、
この地で寺を興した
のである。

ただし寺地・畠地として七畝ほどが
沫検地・沫性分の免許地とされ、
もとは伽藍の跡であった。

蓮池については古記に
「毎月およそ三反ほどの作付け(収穫)があった」
と記されている。

のちに検地が行われ、
この地は 名眉地 と定められ、
さらに手続きが進められた。

そして、この字名(あざな)は
「詰守(つめもり)」の元の地名であり、
すなわちかつての悲大寺の法統を守る土地である
と記録されている。

古くから宝物のように守られてきた場所である──
という意味である。

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