



阿波國風土記 編輯纂
<筑波大学図書館蔵書 見開きNO-52/L~55/R>
一 管弦太鼓 此太鼓獅子の皮にて在りたる第ニの祠にてありしグ
文化八年 辛未二月ニ前右守敬公桐様法為寺町東光ると煉供ならいあり
其時貸もとし祠至寶の祠なるよし沫写上阿りく
麻植塚の里なる佳藤惄五廊方ゝ沫身幡の内時
枝乗世よとの伝あり沫伺にかけ其後西川田むら
住友次五廊方ゝ沫今時打亦枝乗るの記る
伝阿り内院ニ入リ祠の枝上抗ら行列太鼓ハ記上
伎産の曳ハ只ゝちニ枝彼く居や阿りぬ
一 横笛 一此祠ハ平敦盛記物にてありしよし点
是も同時ニ前左守様へ記上仕ろひき
一 木像神秘 彦神也 是三ッ嶋村流失せりし沫
水沼彦の命ならんと思ひけらしぬ
一 同 姫神 是水塞姫ならんかし
此二神大水の時に流れ来りとの云彼くなり
一 黒き色にて古調と桐欠*神秘一躯素戔嗚尊
是ハ先年悲大寺焼失の時埋れたるを善勝寺
此ち開拓の節ち中る宝此眠せしなり
一 高祖親鸞上人和讃の切れ捕りなり
右を本願寺澄如上人内百石光沫所付
一 上品阿弥陀如来 座像 弘法太師沫花
悲大寺什物なりしグ宝永五年に此眠せしとなり
一 信濃国善光寺の本尊分身の阿弥陀如来
一 如意輪観音大士 慈覚大使の沫花
長曾我部元親念滴佛なりと云故及て當寺と納ル
一 沫文章一通 實如上人沫直筆
一 聖徳太子御木像 為信僧都の花なり
此君ハ人皇三十一代敏達天皇 太子ニてわくふ聚のふ
金紙金沈六字名(号古字)浄古家の祖師法枝上人四十二歳内分手古より伴る
唐輪一 秀吉公朝鮮国沫陣シ時伎ニ此し左ニて
猿田彦大神画像 聖徳太子御分光なり
堆身□盆 喜蓮院慈道一品法親王沫記物シ祠
法弁法身尊形 開基佛
式内太鼓坐の二祠ハ足利家より物領なりと云ふ
一 蜂須賀家 沫先祖 菅一彦様へ本祠顕る開基教上人沫礼 御書一通 右二通善勝寺寶物記物只ゝニあ利
此学村ニ近い南山の麓にて往来道筋より南へ入辺
旅人の通駐ハ稀にて商人ハかく農人のミ局ニにくた
藍玉屋又ハ打綿商人又ハ金物職商人も
おわすれども居商売のをハなく商人は皆旅く
此他□へ通修するなり産物ハ藍花米花麦
などの雑穀物麻芋楮何によらず生をる記の
骨腴の地にて御年貢は逃て當く多くふ左□り
□欠け人ハ忘雑技流業村柄ニハ物□すれども蒼生皆
質礼にてよく義に報ふ人多く何事も
質素を局にして耕花に此□する故にや杦部
困窮もせず又當家にも何らす平均なりぬ
村柄にて□わけて山カ毛道に此□する人多く
久学を好む人ハかしむ他国商人阿る祠内く
商才には忘るきをも阿る村なり
この太鼓は獅子の皮で作られており、
第二の祠に祀られていたものである。
文化八年(辛未・18011年)二月、
前右守・敬公(きょうこう)様が寺町の東を巡行した際、
その行列の儀式に合わせて鳴らされた。
当時、祠の至宝として扱われていたため、
その旨が“沫写上”(奉書のような格式文書)に記録されている。
麻植塚(おえづか)の里に住む「佳藤惄(かとうしん)」五郎という者が
この太鼓の幡(はた/飾り布)をつかさどっていたが、
その後、西川田村(現在の西川田周辺)の
住友次五郎がこれを引き継いだと伝わる。
これらは内院(寺領の核心部)に納められ、
行列の際には枝上(えだがみ=飾り台)の上に据えて運ばれた。
太鼓の音はきわめて雅で、
曳き手たちは節度をもって進んだという。
一 横笛
これは平敦盛(たいらのあつもり)の遺品であると伝えられ、
同時に前左守様へも記録として差し上げた。
一 木像神秘 彦神(ひこのかみ)
これは三ッ嶋村のあたりに
大水で流れ着いたものと伝わる。
水沼彦命(みぬまひこのみこと)であろうと
人々は語ってきた。
一 同 姫神
これは水塞姫の像であろうか。
この二柱の神像は、大水の際に流れ寄ってきたという
古い言い伝えがある。
一 黒色の古調の神秘像 一躯(素戔嗚尊)
これは素戔嗚尊(すさのおのみこと)と伝えられる古像で、
先年、悲大寺(ひだいじ)が焼失した時、
地中に埋もれていたものを
善勝寺がこの地を開拓した折に掘り出し、
宝物として祀ったものである。
一 高祖 親鸞上人の和讃の切れ端
親鸞聖人の和讃(仏教詩)の断片で、
寺宝として代々伝わった。
本願寺 澄如上人に関わる宝物
右記の宝物は、澄如上人(本願寺第8世)ゆかりの品である。
一 上品阿弥陀如来 座像
弘法大師(空海)の“沫花”(奉書・念持物としての記録)
悲大寺の所蔵物であったが、宝永五年にこの地に移された。
一 信濃国 善光寺の本尊分身・阿弥陀如来
一 如意輪観音大士
慈覚大師(円仁)の“沫花”
長曾我部元親の念持仏であったと伝えられ、
後に當寺へ納められた。
一 沫文章一通
實如上人(本願寺9世)の直筆。
一 聖徳太子御木像
為信僧都の奉納品。
この太子像は、敏達天皇の御代に関わるとされ、
“聚(あつまる)”の地に縁深い。
金紙金沈六字名(古字)は、
古家の祖師・法枝上人(42歳)の内分筆より伝来。
唐輪一(とうりん)
秀吉の朝鮮出兵の際、
従軍した人物が持ち帰ったとされる。
猿田彦大神の画像
聖徳太子の分光と伝えられ、
堆身盆(ついしんぼん/供物台)とともに
喜蓮院慈道一品法親王の記物として祠に納められる。
法弁法身尊形
当寺の開基仏。
式内 太鼓坐の二祠(たいこにますのにほこら)は、
足利家より社領の寄進を受けたという。
一 蜂須賀家
その先祖 菅一彦(かんいちこ)様へ顕れた“本祠の開基・教上人”の礼状一通。
右二通は善勝寺の宝物として今に残る。
此学村の地勢・生活・産物
此学村(ここのがくむら)は
南の山麓にあり、
往来の道から南に少し入った静かな村である。
旅人はまれに通る程度で、
主に農民が暮らす地域である。
藍玉屋、打綿(うちわた)商人、金物商人は
この地に“おわす”ものの、
常駐して商う者はおらず、
商人の多くは旅の商いをする渡り商であった。
ここから他の地域へ修行・出稼ぎに行く者もあり、
村の産物は、
- 藍花
- 米花
- 麦
- 雑穀
- 麻
- 芋
- 楮(こうぞ)
など多岐にわたる。
土地は肥えており、
年貢もよく取れたので
村の暮らしは概ね豊かであった。
一方で欠けた人(働き手が少ない家)は
雑技(副業)で生計を立てた。
村全体としては質素で勤勉、
義理堅い者が多い。
農作業を中心に、
みな慎ましく暮らしている。
“杦部(すぎべ)”と呼ばれる地区も
困窮することなく、
また当家(善勝寺?)にも
大きな負担をかけず、
比較的均等な生活を保っていた。
村柄として、
各自が山への小道を通って
日々の務めに励んでいる。
学問を好む者もおり、
他国からやってくる商人には
商才が乏しい者も混ざっていたというが、
全体としては穏やかで誠実な村であった。
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