
阿波國風土記 編輯纂
<筑波大学図書館蔵書 見開きNO-94>
(m94R)(翻刻)
① □人の童子にても忌部様と斗り云ひて亦の神号ハ
② 一言も云わぬ也是故にや阿淡群□記にも□□村
③ 東南の山を忌部山と云ふ九月廿三日の夜當山にのぼり
④ 月を□すれバ月立躰に冗内と阿り又山崎村の部ニハ
⑤ 當村忌部山大社の西に谷あり日鷲谷と云ふ當国第一
⑥ の旧跡なりとあり又延喜式ニも麻植郡座忌部神社
⑦ 天日鷲命とあれバ由来人しき御社也 又天富命
⑧ 彼阿波の忌部をわかちて総の国へ坐され麻穀を拉て
⑨ 世の至寶となさしむ今の安房の国也総の国を□て
現代訳(m94 R)
身分の低い童子であっても、人々は「忌部様」とだけ呼び、
それ以外の神号については一言も口にしなかった。
そのためであろうか、阿淡群の記録にも村名などは記されていない。
村の東南にある山を忌部山といい、
九月二十三日の夜にその山へ登ると、
月を拝することができ、月が立つ姿がはっきりと見えたと伝えられる。
また山崎村の条には、
この村の忌部山大社の西に谷があり、
日鷲谷と呼ばれ、当国第一の旧跡であると記されている。
さらに『延喜式』にも
「麻植郡座忌部神社 天日鷲命」とあり、
由緒の正しい由来をもつ神社である。
また天富命は、
阿波の忌部を分かち、総の国へ移られ、
麻穀を広めて世の至宝とした。
これが今の安房国であり、
総国を分けて成立したものである。
(m94L)(翻刻)
① 上総下総とし又下総を□て安房郡を安房国とす
② 天富命其地に天太玉命の神社を建立しのふ是を
③ 安房社といふまた洲崎の神社ともいふ此社建立の年□
④ 今寶歴四年迠ニ子冗る十四年になると由来□ニ久シキ
⑤ 事也太玉命ハんべ□祖神なるに依て御孫富命
⑥ 社を建立シテ尊崇仕るふとかや
⑦ 元文五年十一月勝左史雅楽と改名□ち御門家許□
⑧ 寛保元年二月□人退役同シ年神明丁沫詞也
⑨ 寛延二年十一月勝左史卒宝歴三年に鷲命本社
⑩ 并ニ拝殿焼失すとあり 然るに忌部神社ハ忌部
現代訳(m94 L)
総国は上総・下総に分けられ、
さらに下総から分かれて安房郡が安房国となった。
天富命はその地において天太玉命の神社を建立し、
これを安房社といい、
また洲崎の神社とも呼ばれている。
この社の建立年は不明であるが、
宝暦四年の時点で十四代を数え、
由来が非常に古いことが知られている。
天太玉命は祖神であるため、
その御孫である天富命が社を建立し、
尊崇して祀ったという。
その後、
元文五年十一月に勝左史が雅楽と改名し、
御門家の許可を得たこと、
寛保元年二月に退役したこと、
同年に神明丁の沫詞があったこと、
さらに寛延二年十一月に勝左史が没し、
宝暦三年には鷲命本社および拝殿が焼失したことが記されている。
しかし、忌部神社については―
抽出トピック
1. 忌部山信仰と秘匿性
- 神号を明かさず「忌部様」とのみ称する沈黙の信仰
- 記録に村名すら残さない意図的省略
2. 忌部山・日鷲谷という聖地構造
- 忌部山での月拝儀礼(九月二十三日)
- 日鷲谷=「当国第一の旧跡」とされる理由
- 天日鷲命との直接的結合
3. 延喜式に見る国家的承認
- 「麻植郡座忌部神社 天日鷲命」
- 地方祭祀が中央制度に組み込まれた痕跡
4. 阿波忌部の分岐と東遷
- 天富命による阿波忌部の分派
- 総国・安房国成立と忌部の移動
- 麻穀=経済・祭祀両面での基盤技術
5. 安房社(洲崎神社)の系譜
- 天太玉命(祖神)→ 天富命(御孫)
- 忌部系祭祀の正統継承
- 極めて古層の社伝(宝暦時点で十四代)
6. 近世社史層(後代記事)
本社・拝殿焼失という断絶
元文・寛保・寛延・宝暦の年代記事
社家・神職の履歴

阿波國風土記 編輯纂
<筑波大学図書館蔵書 見開きNO-95>
(翻刻)
(m95R)
① 郷にあるべしとハ人ニ皆云へども是忌部郷麻植郡
② いづれの廟を云ふや昔より□免難き此郷ハ元忌部
③ 氏の人多く住し故の郷名にてあるべし他の国にも
④ 忌部忌部号に及されと忌部の神坐す郷故
⑤ 即千是号を忌部号と号したる変阿るましきにも
⑥ あらしぞ 又応仁武鑑曰細川左馬頭指賢居城阿波国
⑦ 麻植郡城山祠領麻植郡忌部広三百町と阿り
⑧ 往古種野邑城グ丸と云ふ地ニ細川家阿りしと云又其末子
⑨ 千寿◎山崎村美崎山に居たると云り是故此写也りに
(m95L)
① 城と云字阿り又城谷と云あり又城の池と云あり
② 皆御検地御侘忳に委変阿り又其後細川指賢ハ
③ 三ツ嶋村柳の窪に住すとアリ是学村善勝寺の先祖
④ にて山写記物足利将軍より拝領の寶物教祠と
⑤ 今に号□せり然る上ハ麻植郡郷割りハ條に云ふ
⑥ 如く山崎種野別枝南張川井木屋平ハ皆ゝ
⑦ 忌部の郷ならん□に亦村にも又村色ニ忌部を
⑧ いへども亦のハ皆疵あり前條にのふるがごとし
⑨ かくあれバ此山崎□□忌部の郷ならん則古事記
(m95R)現代訳
人々は「(問題の廟は)郷の中にあるはずだ」と皆言うが、ここは麻植郡の「忌部郷」である。では、その「いずれの廟」を指して言うのか。昔から(その点は)確かめがたく、この郷はもと忌部氏の人々が多く住んだためにそう呼ばれる郷名であろう。他国にも「忌部」を名に及ぼす例はあるが、忌部の神が鎮まる郷であるゆえに「忌部号(忌部の名)」と呼んだというのは、さほど不自然なことでもなかろう。
また『応仁武鑑』には、細川左馬頭指賢の居城は阿波国麻植郡の城山であり、麻植郡の忌部の祠領が三百町とある。往古、種野邑の「城グ丸」という地に細川家があったともいい、その末子・千寿が山崎村の美崎山に居たともいう。ゆえに、この写(この記録)は(その系譜・由来に関わって)書かれたものである。
(m95L)現代訳
この地には「城」という字を含む地名があり、また城谷、城の池という名もある。これらのことは、御検地や御( )に関する記録に詳しく変遷が書かれている。さらにその後、細川指賢は三ツ嶋村の柳の窪に住んだともある。これは学村善勝寺の先祖であり、山写記には、足利将軍より拝領した宝物を教祠として、今に(名を)称しているとある。
そうであるなら、麻植郡の郷割りは、条に言うとおり、山崎・種野・別枝・南張・川井・木屋平などはいずれも忌部の郷であろう。( )にも、また村々にも、村ごとに忌部を言うが、それらにはいずれも疵があり、前条に述べたとおりである。以上からすれば、この山崎( )は忌部の郷であろう。そこで『古事記』へ(論を)つなぐ。
トピック(m95)
- 「忌部郷」とは何か
郷名の根拠を「忌部氏の居住由来」として説明し、特定の廟に直結させる断定を避けている(□保持を含む)。 - 「忌部の神坐す郷」論
忌部という名が付くことの正当化(神が鎮まる郷であるから名が成立する)と、他国にも同名例があることの提示。 - 武鑑史料の挿入と細川指賢
『応仁武鑑』を引き、城山居城・祠領三百町を示して、祭祀領域と武家権力・領有の結び目を作っている。 - 「城」系地名群の意味
城山/城谷/城の池という語群が、土地の記憶(軍事・領有・検地)と連動する可能性を示す。 - 検地・郷割りの層
「御検地」等の行政層の記述が、地名説明の根拠として機能している(由緒説明が“制度”に寄り添う構造)。 - 忌部郷の範囲推定(ただし本文は断定せず)
山崎・種野・別枝・南張・川井・木屋平を列挙し、郷割りとしての忌部領域を描く。 - 反証処理(「村々の忌部称」への疑義)
各村が「忌部」を称することへの留保(疵あり)を明示し、前条の議論へ接続して整理している。 - 次段(古事記)への橋
「則古事記」で終わり、以後は記紀(古事記)側の根拠・物語層へ接続していく準備段階になっている。
コメントを残す