
阿波國風土記 編輯纂 一巻
<筑波大学図書館蔵書 見開きNO-07L>
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翻刻
此内瀬詰村の枝村に湯立名と云フ地あり
此郷名射立の射と湯の五音の誤りなりと
古き言彼くあり北射立一ツの村名なるや〇
高越神社の西に拝村と云フ村あり此村今ハ美馬郡ニ属ス及併根元
此ハ麻植郡の内なりと云フ
今も川田村八幡神社の産子にて祭禮の神輿は此村に人民命世されバ
心霊の輿移されなし又高越の社も同断の氏神なり
彼ニ村を源とし五ヶ村なりしと思ひけらしぬ
然るにいつ世にかわ此川村も美馬郡の内に属しぬるにや
郷名は消うせ射立の号も湯立と変し拝村も美馬郡のうちへ属しぬるにや
中昔の古き写本に麻植郡三拾五むらと阿るを見及た里 楢高貴の御蔵書に
附て冗そやと思ひけらしも世め然るに四郷の内忌部神御詰坐在せしハ
現代訳
内瀬詰村の枝村に「湯立名」という地がある。
この郷名「射立」は「射」と「湯」の音の誤りだと、
古くから言う。「北射立」という一つの村名だったのだろうか、
という含みもある。高越神社の西に拝村という村があり、いまは美馬郡に属すが、
もとは麻植郡の内だという。いまも川田村の八幡神社の産子で、
祭礼の神輿はこの村へ出る。人の支配が変わっても、神霊の輿は
移されない、という感覚がある。
高越の社も同じく氏神である。
この二村を根として五ヶ村になったのだと、そう思われる。
ところがいつの世か拝村も美馬郡の内に属したのだろうか。
郷名は消え、射立の名も湯立へと変わった。
拝村もまた美馬郡に属したのだろう。
中昔の古い写本に「麻植郡三十五村」とあるのを見た。
それは里楢高貴の御蔵書に付して書かれたものだろう、と、そう思われる。
しかし四郷の内、忌部神が御詰坐した所は――
トピック
収束点:四郷と忌部神(御詰坐)
郷名は消え、郡は移り、記録も揺れるが、「然るに四郷の内 忌部神 御詰坐在せしハ」と、忌部神の所在を固定点として提示して次段へ接続する。ここが本文の重心。郷名の誤転(射立→湯立)
内瀬詰村の枝村に「湯立名」があり、旧郷名は「射立」。射と湯は五音の誤りであるという「古き言」が伝わる。さらに「北射立」が一つの村名だった可能性を示唆する(「なるや〇」美馬郡の越境と「根元」意識(麻植郡→美馬郡)
高越神社西の拝村は、現在は美馬郡に属するが、根元は麻植郡内であったという。川村も同様に美馬郡へ属したのではないか、という疑問形で郡替えの過程を捉える。
祭祀所属の固定(神輿は移らない)
川田村八幡神社の「産子」として、祭礼の神輿は拝村に出る。人の支配・行政所属が変わっても「心霊の輿は移されなし」とし、祭祀の所属は移転しないという感覚を明示する。高越社も同断の氏神とされる。
村の分岐と数の記憶(五ヶ村/三十五村)
二村を源として五ヶ村になったと回想される一方で、中昔の古い写本には「麻植郡三拾五村」とあるのを見及んだと記す。村数は伝承と写本で揺れつつ、記録の層が重なる。
史料意識(古き言/古き写本/御蔵書)
「古き言」による語源説明、「中昔の古き写本」の目撃、「楢高貴の御蔵書に附て」といった所蔵情報を挙げ、筆者が根拠の層を意識している。ただし「冗そやと思ひけらしも」と自己保留も入れ、断定を避ける。
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